出典:civilbeat.org
オアフ島西海岸で毎年行われるサーフィン クラシックも45回目を迎え、御年88歳にしてレジェンドのバッファロー ケアウラナは未だに海と人生を謳歌しています。
ハワイ-アメリカ大陸西海岸の最も近い土地から1,800マイル離れた太平洋の真中にあるこの島は、絶好のロケーションに恵まれていました。太平洋に囲まれ、素晴らしい海洋環境に縁取られたハワイで、古代ハワイ人の楽しいスポーツとしてサーフィンが生まれた歴史は数百年前に遡ります。世界中で観光地ハワイの人気が出てきた頃サーフィンの人気も上昇し、ハワイは世界一のサーフィン大国になりました。当時からのレジェンド、デューク カハナモクはサーフィンの世界的な成長を担う中心的な存在でした。
時は経ち、サーフィンは波の良いビーチで行われる人気レクリエーション スポーツとなり、1953年にはワイキキ サーフ クラブが世界初のサーフィン大会「マカハ インターナショナル サーフィン チャンピオンシップ」を男女対象に開催し、サーフィンの歴史を創りました。
ハワイで最も人気あるサーフィン大会の一つであるチャンピオンシップが、今月マカハビーチで開催されることが決定。これはサーフィンとハワイのコミュニティの絆をつくり、生きたライフガードのレジェンドでありサーフィン チャンピオンでもあるリチャード「バッファロー」ケアウラナを称えるイベント、バッファロー ビッグボード サーフィン クラシックにとって45周年目に当たります。この大会はバッファローのライフガードそしてチャンピオン サーファーとしての功績だけでなく、人々が集う場所としてのマカハ ビーチや海の恵み、そしてサーファーのコミュニティおよび海を楽しむすべての人達を尊重し、マカハ ビーチを守る地域社会への貢献精神を確立した彼のリーダーとしての役割を認識したものです。
1953年から1971年まで開催されたマカハ インターナショナル サーフィン チャンピオンシップは、世界的な産業として開花するサーフィンというスポーツがプロのアクティビティとして誕生したことを世間に知らしめたイベントでした。サーフィン業界の中核は大々的な大会の告知に支えられ、世界中で大会開催に協力的な波の良いビーチに観客を集めることにあります。コンテストは他のプロスポーツ同様、ビジネスです。商業的スポンサーにより資金繰りが成り立つ大会は、驚くような技の数々、そして時には文字通り死に挑むような波を乗りきる極度のスポーツ精神に支えられています。選手は何千人もの観客を世界中のビーチに集め、さらにスポンサーによるメディア媒体を通し何千人もの視聴者に観戦されます。
毎年開催される世界のサーフィン大会は、男女の世界王者を表彰して終了します。世界的スポーツとしてサーフィンの進化が最も評価されたのは、2016年に初めて公式のオリンピック スポーツに選ばれたことにより、日本で開催された2020年オリンピックで初めて公式競技になった時と言えるでしょう。
マカハ ビーチのバッファロー ビッグボード サーフィン クラシックが典型的なサーフィン大会ではないことを完全に理解するには、「ナナ イ ケ クム(ハワイ語で『はじまりを見る』という意味。ハワイ人子弟対象に書かれた本の題名でもある。)」ことが必要となります。
バッファローは1934年に生まれ、父親はカメハメハ一世、母親はケカウリケ王の血を引いていました。王家の血筋を引いてはいましたが、ワイアナエ海岸で育った彼は数多くの困難に見舞われ、幼いころから海は彼にとってのレスキュー チューブ、避難場所、先生、精神カウンセラー、魂のバランスをとる場所でした。いつも海にいるため、彼の母は彼のニックネームをバッファローとつけました。モンタナ州やワイオミング州などにいるバイソンを間違えて呼ぶ種類のバッファローではなく、インドなどにいる水牛のバッファローです。働いていない時、彼はいつも海にいました。
1950年代、バッファローはラビット ケカイやデューク カハナモク等を含む伝説のワイキキ ビーチ ボーイズのうちの何人かともつるんでいました。また妻となるモミともビーチで出会い、すぐに結婚しました。
数年間職を転々とした後、バッファローは1960年25歳の時にマカハ ビーチ公園唯一の公園管理人として採用されました。ビーチには管理人が使用できる市所有のA形をした質素な二階建ての建物があり、そこにはバスルームとキッチンがあったため、バッファローと妻のモミは4人の子供たちと共にその建物に移り住みました。
当時のマカハ ビーチはあまり人気もなく、ライフガードのサービスは週末のみに限定されていましたが、公園管理人として働き始めてたった数日で、バッファローは赤ちゃんを救助しました。それは彼が公園管理人であった1960年から1968年の間に行った多くの救助の一人目でした。 モミが言うように、彼の救助は公園管理人の勤務時間に限らず、昼夜いつでも命を助けるために救助に応じていました。彼の素晴らしい公園管理人救助の記録がやっと市の職員の目に留まり、バッファローはライフガードの仕事に応募するよう助言されました。
しかしバッファローは読み書きが得意ではなく筆記試験に受からなかったため、ニール ブレイズデル市長が雇用規則の特例を認めてくれたおかげで、バッファローは公園管理人からマカハ ビーチ専任ライフガードになることができました。マカハ ビーチのライフガードとしてのバッファローの救助記録は称賛に値します。しかし地域社会への責任を強く感じていたバッファローは、マカハ ビーチのライフガード任務とマカハ ビーチに関し彼が行うべきと感じていた職務ではないその他の役割を分けることをしませんでした。
そのうちの一つには、地元のサーファーやビーチに来る人達の応援により当時頻繁に起こっていた自動車の盗難に介入し、問題を終結したことが含まれます。彼の進化するビジョンは「マラマ マカハ ビーチ(マカハ ビーチを大切にする)」(尊び、保護し、守る)でした。マカハ ビーチは家族が安心して集う場所として、教師である海のある自然センターとして、コミュニティを尊ぶ場所として、またサーファーやその他のビーチに来る人達が人種に関係なくブラザーフッドを感じられるサーフィン天国として存在し、そのビーチを大切にするのが彼のビジョンだったのです。
何年もの間、バッファローは行動することで(彼は話し上手ではなかった)人々を導き、直接またはインスピレーションにより喚起された多くの若いリーダーや組織が彼に習い、海をすべての人と分かち合う教室としました。60年代中頃にはココナッツ ワイヤレス (携帯電話より便利なハワイの伝達方法。口伝え。) により、バッファローはマカハ ビーチの市長として広く知られ慕われるようになりました。
バッファロー ビッグボード サーフィン クラシックは、バッファローが築いた家として彼の考えをすべて表現しています。バッファローの最も大きな功績のひとつは、人々を集めて困難に立ち向かい責任感を分かち合うこと、地域社会を土台とした父、母、息子、娘、そして孫たちの継代リーダーシップの構造を築き上げたことにあります。このリーダーシップ構造は現在第三世代目を迎えています。