オアフ島中央部で育った人なら、おそらく誰もが知っているであろうスミダ・ファーム。すぐ横のカメハメハ・ハイウェイを車で走ると、青々と茂ったクレソン畑が、ドライバーたちの目に入る。この100年近くの歴史ある農場は、農業がこの地域のみならず島の産業の中心だった時代を思い出させてくれる。それは、まるでアイエアに立ち並ぶコンクリートの建物の間に燦然と輝く緑の道しるべのようだ。
「その昔、この辺りはすべて農地だったの」スミダ・ファームの4代目、エミ・スズキさんは言う。「ハワイ先住民は何世紀も前からこの地のマウカ(ハワイ語で「山側」)からマカイ(「海側」)で、ずっと農業を営んできました。先代の頃には、ここから山まで遮るものが何もなく、ずっと見渡せたんですよ。このアフプアア(「ハワイ先住民の土地区画」)の中で、うちが最後の農家のひとつになるなんてびっくりだわ」。
スミダ・ファームは、エミさんの曽祖父母であるスミダ・マキヨさんとモリイチさん夫妻により、1928年に2万平方メートルほどの農場として始まった。水源であるカラウアオ・スプリングスは淡水の帯水層で、1000年以上も前から豊かな水をこの地域に供給してきた。その水は渓流から流れ込む動物の排泄物にも、何年にもわたる付近の開発によっても汚染されることなく、今でも飲料水として問題ないほどの純度を保っている。農場の最もかけがえのない資源である。4万平方メートルの農場内を毎日流れる1900万~3000万リットルほどの湧水は、摂氏20度弱と冷たい。そして、その水を使って、年間200トン近くのクレソンを栽培し収穫している。それは、ハワイ州内の全収穫量の約70%を占めているという。「この水がなければ、クレソンはもちろん農場も存在しないし、この島の人々への栄養供給も絶え てしまうのよ」と、エミさんは言う。
著名な大学教授の両親のもと、主に米本土で育ったエミさんだが、夏休みや休日を過ごしたこの農場に深い愛着を抱いていた。「生まれ育ったのは小さな学園都市で、私は常にマイノリティだったの。ハワイに来ると、私と同じような外見の人たちがたくさんいる。私が慣れ親しんできた食べ物を食べている人がいる。だからここで育ったかのように、この土地には強い絆を感じていたのです。農場はいつでも同じように、そう、文字どおり、何十年も同じようにここにあって。だからここは実際には私の家ではなかったけれど、常に故郷のように感じていたの」。
エミさんの叔母であるバーバラ・スミダさんが、30年にもわたり、兄のデイビッドさんと共に経営してきた農場を誰が引き継ぐかという話になった時、エミさんは名乗り出ざるを得ないと感じたのだと言う。2018年、エミさんと夫のカイルさんは、7年から9年ほどかけて段階的にビジネスを学ぶという長期計画を立て、農場運営の引継ぎを始めた。ところが、2020年1月、バーバラさんが進行性の脳腫瘍と診断され、6週間後に他界した。「エミはすぐにハワイに飛んでなんとか手助けしようとしたけれど、彼女はその時、農場の運営方法はまったく知らず、農場のコンピューターのパスワードさえ持っていなかったんだ」と、カイルさんは振り返る。
2か月後、コロナウイルスの世界的流行により市は封鎖され、島への渡航も制限された。しかし、シアトル在住のエミさんたちは、大企業でストレスの多い管理職を経験してきたこともあり、この難局を乗り越える準備はできていた。14日間の隔離が何度も義務付けられた中でも、カイルさんとエミさんは、2人の幼い娘たちと共に、農場を危機的状況から救い出すことに成功したのだ。農場をフルタイムで管理するため、1年半前に企業を退職したカイルさんは言う。「最初の2年間はビジネスを安定させることで手一杯だった。最近やっと、日々のこと以外の、もっと将来のための計画を立てられるようになってきたんだよ」。
たとえば農場オリジナルの空中スプリンクラーの改良など、取り組まなければならない課題はまだまだある。このスプリンクラーは、ハワイのクレソン産業に大打撃を与えた害虫で蛾の一種のコナガに対する無農薬の駆除方法として、1980年代に農学者のジョン・マクヒューさんと2代目社長のマサル・スミダさんによって開発されたものだ。しかし今日、2人はコミュニティとの連携に注力し、ソーシャルメディアを通じて、ストーリーや家族の歴史、レシピのアイデアなどを共有し始めた。また、パンデミックで中断されていたが、かつて叔父のデイビッド・スミダさんが毎週行っていた、小学生たちの農場見学も再開した。
農場見学で子どもたちは、自分たちの食べ物がどこから来るのかを直接目の当たりにする。そして、農場の労働者が手作業で収穫し、450グラムのクレソンを一束にして、丁寧に手洗いするという手のかかる工程を学ぶ。子どもたちは畑の水の中を歩き回り、岩をひっくり返してザリガニを探し、クレソンのくるりとカールした緑の葉をかき分けて、害虫を防ぐテントウムシやイトトンボを見つける楽しみも経験する。そして、クレソン・ソーダやクレソン・クリームチーズ・ディップなど、農場のシェフが工夫してアレンジしたクレソン料理を試食する。「農場に来る前は、クレソンを食べたことがある子は60人のうち3人いれば良い方なんです。でも、最後には皆、『好きな野菜はクレソンだよ!』と声を上げてくれます」と、エミさんは言う。
農場が都市部に近く、アクセスしやすい場所にあるというのは、一家にとって常に大切なことだった。1970年代にパールリッジ・センターの拡張が進む中、エミさんの祖父マサルさんは開発業者に立ち向かい、この土地を歴史的な緑地として整備することで、農場が舗装されたり、カラウアオ・スプリングスが塞がれたりすることを阻止した。それ以来、スミダ・ファームは、オーパエウラ(「ハワイアン・シュリンプ」)や絶滅が危惧される水鳥のアラエウラ(「ハワイアン・バン))などの在来種の動物の生息地である湿地を維持し、さらには地域の人々に彼らの家のすぐそばの農場で農業と触れ合う機会を提供するなど、多岐にわたる恩恵をもたらしている。
「私たちが困難に直面し、肩にずっしりとした重圧を感じた時、私たちを励ましてくれたのは地元の人々でした。『諦めちゃだめだよ。戦い続けなさい』ってね。そのおかげで、次の世代も続けていこうと思えるのです」と、エミさんは言う。