お昼時のワイパフ。レストラン〈ハイウェイ・イン〉は、にぎやかな喧騒に包まれている。メニューを見ながら何にしようか迷う新規のお客の横で、親の代からの常連客がビーフシチューやラウラウといっ たお気に入りの料理を注文している。初めて食べるスクイッド・ルアウに舌鼓を打つ女の子。ハウピア(ココナツミルク)のデザートで誕生日を祝うトゥトゥ(祖父母、年配の人)。〈ハイウェイ・イン〉で何十年も前から見られる家族の風景だ。
ワイパフの人々に愛されてきた〈ハイウェイ・イン〉の創業は1947年。当時はわずか3人で切り盛りする小さな店だった。
創業者である渡久地政一(トグチセイイチ)さんと妻ナンシーさん、そして皿洗いのスタッフ。ハワイでは、砂糖とパイナップルが王様よりもえらかったプランテーション時代のお話だ。その時代、世界各地からやってきた労働者がそれぞれの食文化を融合させてハワイの郷土料理ができあがった。人々が”ローカル・グラインズ”と呼ぶこうした料理は、ハワイの文化の多様性を映し出している。近くのプランテーションで働く人々に、値段も手ごろでお腹も満足するパウ・ハナ(仕事のあと)の食事を提供してきた〈ハイウェイ・イン〉だが、ほかの店とは決定的に違う点がひとつあった。当時人気だったアメリカ料理や日本料理、中華料理ではなく、ハワイ料理だけしか出さなかったのだ。
沖縄出身の政一さんは「ハワイ料理が大好きで、その思いを人々と分かち合いたかったんです」と政一さんの孫娘で〈ハイウェイ・イン〉三代目のオーナーであるモニカ・渡久地・ライアンさんは語る。モニカさんは2009年、父親のボビー・渡久地さんから店を引き継いだ。
政一さんは14歳のとき、近くの食堂で働きながらハワイ料理の調理法を学んだ。やがて第二次世界大戦がはじまり、政一さんとその家族は数万人の日系アメリカ人とともに米国本土の強制収容所に移住を強いられた。カリフォルニアとアーカンソーに抑留されているあいだ、収容所の食堂で働いて料理の腕を磨き、レパートリーを増やした政一さん。1946年に一家でハワイに引き上げたとき、ファーリントン・ハイウェイ沿いに食堂を開くことにした。モダンなハワイ料理に欠かせないチキン・ロング・ライスやロミ・サーモン、そしてポイといったおなじみの料理を提供する店だ。
「1940年代当時、ハワイ料理を出す食堂はほとんどなかったんです」モニカさんによれば、この70年間、メニューはほとんど変わっていないそうだ。メニューの基本はあくまでもハワイ料理。「人気があ ろうとなかろうと、うちはずっとハワイ料理一本です」
いわゆる”小さな町の食堂”としてはじまった〈ハイウェイ・イン〉だが、今やワイパフ、カカアコ、そしてビショップ博物館内の3店舗を抱え、1日500食以上を提供する外食企業に成長した。客層も幅広い。米国議会の議員も立ち寄れば、高校のスポーツチームも試合のあとに大勢でやってくる。だが、そこにはいつもお気に入りの料理を食べにくる愛すべき常連客がいる。原点であるワイパフ店ではとくにそうだ。
「わたしたちの本拠地はいつだってワイパフですよ」モニカさんは誇らしげに言った。